昭和五十四年五月二十九日
朝の御理解
御理解第六十四節「此方は参って尋ねる所がなかった氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが信心して徳を受けて身凌ぎをするやうになれ」昨日、一昨日でしたか、筑水連合会の信徒会が西原教会でございました。ここからおかげを受けられて帰ってから、誰方かが、ここでお届けをしておられましたが、合楽の方達は皆、ま、合楽独特の言葉を使うわけですね、いろいろ。
「成行きを尊ぶ」とか「大切にする」とか、又ハ「天の心を心とする」。「地の心を心とする」とか、又ハ、特に皆さんが使う言葉の中には「黙って治める」と、いうことを申しますね。
その「黙って治める」と、いうことが皆にはわからないらしい。
で最後に連合会の会長さんであります、あちらは何という方でしたかね。服部さん、宮野の教会のね。総代さんという方が、仲々、信心も出来た方で、とにかく合楽的な信心でおかげ受けておられる方らしいですね。
それから、最後に説明があつたのに「合楽の方達が『黙って治める』といわれるのは、自分を空しうすることだろう、と、言うふうに、お話になつた。」と、いうことでございますけれども、本当に、この合楽で『黙って治める』と、いうことは、あれは「治める」という字を、から、あれはいただいた。サンズイ偏にムクチと書いてある。もう、一番最高に治まるのは、黙って、所謂、だまって、自然におきてくるその事を神様の御働きとしてね。それを、言うならばムクチで治める。『黙って治める』。
また実際、これを実験してみると、その実証は素晴らしい。「黙って治める事の素晴らしい、本当に言わんでおってよかった」と、いうだけではなくて、それには必ずおかげが伴うという、ね。
ですから、お互いね、盛んに使う、言うなら合楽語とでも申しましょうか、使いながら説明が出来ないような事ではできんと思うのです。皆さんならどう・・・「いや、実は『黙って治める』ということは、こういうことです」と、私は訂正の一つでもして「本当に真をわかってもらいたい」と、思ったんですけれどね。皆さんなら、どう説明されるでしようか。
そりゃ「自分を空しうする」と、いうことは、素晴らしい事ですけれども、勿論、我情を取り我欲を取り、ね、我情我欲を捨てていくに従って、我身は神徳の中に生かされてある事実がわかってくるのですけれども、ま、言うならば「空しうなる事の稽古なんですけれども空しうなる事ではないですよね」「空しうなる稽古ではあるけども」、ね。
例えば、なら「黙って治める」と言う時でも、それこそ、もう、本当に腹がぐうぐう言う時もあります。だから空しうするのぢゃない。けれども神様は「黙って治めよ」と、言われるから、金光様金光様と唱えながら黙って治めさせて頂いてなら、あくる日なら、あくる日になって「あー言わんでよかった『黙って治める』と、いう事がこんなにも、ありがたい事であつた」とわかるのであってね。だから「自分を空しうする」と、言うのではない、ね。「空しうする」言うならば稽古を、ま、具体的に、ここでは解かれるわけです。ね。そして、なぜ、黙って治めなければならないか。と、ね。それハ、私共が神様の心を心とする稽古であってみれば、それこそ「天の心地の心」を、自分の心とするのですから。
昨日、安東さんところの宅祭りでしたから、あちらに参りましてから,私、自分でも覚えませんけれども、何か、私が書いてやったものが、軸にして掛けてあった。それに、『天地の心とは黙って受けて黙って与えることです』と書いてある。「天地の心」とはね「黙って受けて黙って与える」、所謂、無条件ということ。条件なしにあたえる。「これをやるから、これを下さい」と言ったようなものぢゃない。所謂「天の心、限りなく美しくならせて頂こう」と、言うのがそれであるし、ね。「黙って受ける、と言うことは、いよいよ土の心に徹しよう」、ね。しかも、そこには一つの大理がある。ね。
「人間は土より出でて、土に還えるんだ。だから、その道中とても土の心になる、ドロの心になることが、一番本当だ。それが、本当の正しい生き方だ。」と、言うふうに説くでしょう。
だから、今、私が申しましたような事が説かれたら、もう、いよいよ「黙って治める」と、いうことは「金光教的だなあ、いや金光教の信心の芯をなすものはこれだなあ。」と、いうふうに、私は、皆に合点してもらえると思うです。
合楽の方達が「黙って治める」と、言われるが、それは自分を空しうする。とてもとても、そげなむずかしい事には、誰でも取り組みはきらんです。ね。
だから、なぜ「黙って治める」かと、言うことが、今申しましたような事がわかってくるとです、ね。きついけれども、もう腹は煮えくり返るようにあるけれども「さ、ここを一つ本気で、土の心になって受けさせて頂こう」と、いう修行精神がわいてくるわけ、本当の事がわかるから。ね。
だから、折角、皆さんが「黙って治める、黙って治める」と、言うだけではなくて、その位の説明はできなければ、私は、折角、実験して、そして実証という体験をもっておられるのですからね。そう思わせて頂きました。
昨日は、竹葉会でもございましたから、丁度四時半まで一緒に研修させて頂いた中で、いろいろお話をしたことですけれども、お互いが「天地の大道」と、「天地につながる道」を、お互いが歩かせて頂いておるんだ。ね。そして、天地との交流を求めながらの、言うならはバ、信心修行なんだけれども「天地の大道」と、言うのは大きい道と、いうことではない。
昨日、大和さんところの奥さんがお夢を頂いて、そのお夢のことを発表しておられました。「それがもう、その道が広いこと広いこと、そしてあんまり広いものだから迷ってしもうて、どこさん行ったやら、わからんごつなった。」と、いうお夢であったげな。
だから「天地の大道」と、いうのは、そんなに広うて、それこそ迷うて、どこさん行ってよいやら、わからんごつなる道ぢゃないということ。「天地の大道」と言うのは、もう、それこそ曲がりくねっておると、いうこと、ね。そしてもう、自分一人がやっと通れる位な場合もありゃ、これから先は行かれんとぢゃなかろうか、という。も、そこに、峨峨として突き立ったような山に直面する事もあると、いうこと。
だから「もう、この山はのぼられん」と、言うのぢゃなくて「本気で登るんだ、これが信心だ。」と、言って登る気になれば「ちゃんと手がかり、足がかりがあって登れるように出来てるのが、天地の大道だ」と、いうこと。もう限りがない、ね。
正義感と言うでしょうかね。もう、特に大和さんの奥さんなんかは、まあ、非常に正義感の強い方です。ですから、人がまちがった事をすると、それが人一倍気がつく「あげなこっていいだろうか」と、いうような事になってくるわけ、ね。だから、そういう、金光様のご信心は正義感からうまれてくる生活とか、生き方というのぢゃない。それこそ、もう、信心させて頂いてる者の中には、ね、ずるいとか、ぬたんごたる人間もおるのです。必ずしも美しい正義感ばっかりぢゃないのです。かえってね、自分な人間として、人格も段々できて「自分の生き方、思うておることは、りっぱな人間の生き方だと思うて、自分にうぬぼれておる人ほど、大体、本当の信心にはなれないです。」天地に、一体に、なれるようなことになってこれないです。自分な、もう、よかつのごと思うとるから。
だから、もう「自分のような汚い、自分のような、言うならば、それこそ、ぬたんごたる人間だな」と、思うような人ほどが、です。ね。一度、信心になって参りますと、言うなら神様、言うならば、もう、それこそ、小さい道でも、どんな突き立ったような山を越えて行かなければならない時でもです。ね。それを体得するのに早いです。ね。
真の道をわかるためには、真の人にならなきゃならない。その、真の、いうならば、信心で言う真の人がです、ね。その上に、まあどこから見ても、りっぱな人だと言う人が、いよいよ、信心を頂いた時には、それこそ鬼に金棒でしょうね。「自分のような汚い」と、いったような事が、信心によってわかってくるとです。もう「自分は信心によらなければ、助かりようがない」と、言ったような、非常に深いつながりを作ることができる。そういう傾向があります。ね。だから、これは昨日、安東さんところでも、お話したことでしたけれども、温かい人とか、冷たい人とか、どっちでもいい。冷たい人でなからなければ、出ない根性をもっておるし、温かい人でなからなければ、ね。言うならば、本当の神情にはふれにくいとか、ね。それこそ、“多情仏心”と言って、多情な人は仏心が強い、と昔から言われる位です。ね。
だから、多情な人を見ると、非常にろくそうに見えるですね。けども、そういう人が、一度、心を信心に向けて参りますと、仲々、おかげを頂きます。ね。言うなら、有難さにふれていくことができる。人一倍有難くなれれるです。冷たい人は、仲々、ありがたい、と、いうものにふれられない、ふれにくい。けれども、そういう人がいよいよ有難いにふれていったら、いよいよ、また、立派ですね。一寸、話が横道になったようですけれども、ね。「徳を受けて身凌ぎをするようになれ」と、言うことは、言うならば、最近言われる、コントロール、ね。
人間、いろいろ、冷たい人もおれば、温かい人もおるけれども、その、冷たいのと温かいのとが、コントロールされる。ね。丁度よい、言うならば、ものが、そこからうまれてくる。そういう手立てが段々出来てくるようになると、いうことがてです。ね。一人でにぢゃない「身凌ぎのできるような信心」と、いうことになるのぢゃないでしょうか。ね。
自分で、自分の心をコントロールできる。これが、私は身凌ぎだというふうに思うです。ね。
そこで、一番始めに申しましたように『黙って治める』とね言うような事がです。いかに、言うならば『天の心地の心』にピッタリするかと言うこと。それには、いよいよもって、心を大事にしていかなければならない。それこそ、昨日のご理解で頂くと『心こそね、四方庵』という、ね。
四つの宝、人間は誰でも宝を持っておるけれども、その心を大切にせずにね。物を大切にしたり、お金を大切にする事だけは知っておるけれども、宝物のように思っておるけれども、そうぢゃない。ね。『心こそが宝なんだ、その心を宝たらしめる』と、いうこと、ね。そこに、人間の幸福の条件がたろうてくる。心に、『心一つですべてが創られる』と、いうこと。ね。
金ぢゃない、物ぢゃない、宝ぢゃない、ね。けれども、心に伴のうてくるところの、幸せの条件というものがです、ね。宝だ。
だから、沢山な人間がおるけれども、その殆どの人が、その宝である心と言うものに、焦点をおかず、心を宝と思わず、そして、金が、言うなら、宝のように思っておるような生き方では、もう、それこそ、金のために命を落としたり、ね。金のために、難儀しなければならないような結果にしかうまれてこない。ね。
心に伴ってくるところの、お金であり物であり、心はそんなにも大切、それを大切にする、と言うことです。言うならバ『土の心に徹する』と、いうこと。『黙って治める』と、いったような信心を徹底して、それに行じさせて頂けれるような道を、体得するということが『身凌ぎが出来る』と、いうことになるのです。又、私は、そうだと思います。ね。
『黙って治める』と、いう事の、言うならば「なぜ、黙って治めねばならないか。」という、その根本のところを、わからせてもらい、まあ、説明を以ってするならば、皆さんに聞いて頂いたようにね。人間は、もう、とにかく『土の生き方を以ってするが一番本当な生き方だ。」と、言うようなこと。ね。
心に頂いておる宝、言うならば、この宝を、いよいよ、ね。
光を放つように、大切にしていくという、そこに「改まる」と「研く」と、いうことにもなってくる。ね。
そこから、言うなら、「黙って治めさせて頂ける」それが、言うならば「身凌ぎができる」と、いうことになるのです。
合楽では、それを、もう、本当に、かき口説くように、言うならば、丁寧に説いてあるんです。ですから、それが、説明ができないような事ではね。それは、なるほど。
信心とは、究極のところ、自分を空しうすることなんです。けれども、だから、自分を空しくする事ではない。もう初めから、そういうことだったら、とても、そげなむつかしいことはできん、ということになるだろう。
けれども、なぜ「黙って治めることが一番本当なのか」と、いうそのわからん、そういうところを、わからせて頂いて、ね。それを日々、実験させてもらい実証させてもろうて、言わば「『黙って治める』と、いうことが「こんなにも素晴らしい」と、いうことがわかった時に、初めて身凌ぎがでる。」ね。
そこに、いよいよ、心を大切にしていくことの尊さ、ありがたさがわかってくる、というところまでわかつた時に、初めて身に徳を受けることもあれば、身凌ぎができるようなことにもなる時ぢゃないか、と思います。
『此方は参って尋ねる所がなかった。」と、仰る。
私は、今の教団、金光教と言うてもです。ね。こんなに、例えば、教えをあらゆる表現をつくしてです、教えられるところは、またとないぢゃないか、と思う。ね。そういう、言うならば、ここへ参ってくる、なら、合楽へ参ってくる皆さんの一人一人がです、ここを体得せずして、何を体得するか。ここを合楽で頂かずして、合楽で何を頂くか。ね。金やら物やらぢゃない、ね。心がこんなにも尊い大切なものであるから、それを、いよいよ、ね。宝たらしめる為の生き方をです、体得することに焦点をおかなければいけないか、ということをね。わかるところから、信心が楽しうなってくるのであり、有難くなってくるのであり、それこそ、天地とのリズムもうまれてくるのであり「まっすぐい道」という。言わば『天地につながる道」と言うのは、まっすぐい、もう広々としたまっすぐい一直線と言ったようなものではない。それこそ、曲がりくねっておるところを、まっすぐ行こうとするから、川にぶつかったり、行かれん所に、迷わなんようなところにぶっかるのだと。それこそ、これからこちらへ行け、あちらへ行けと、曲がりくねっておっても、そこには、いうならば矢印が垂れてあるようなものです。合楽で信心の稽古をするならば、ね。場合には、もう自分が一人やっと通れる、といったようなところも、通らせて頂けれ、そこを通りぬかせて頂いたむこうに、天地との交流がある。ね。その言うなら、手立てがです、お互い身凌ぎのできるような信心を、めざさなければいけない、ということになりますね。
「どうぞ」